なんでもうまくいかないことについて

こんにちは。マンモンと申します。

初めてブログ書きます。

私は自分自身の不遇について、今まで怒ったり愚痴ったりそんなことを繰り返してきました。なんでこんなにうまくいかないのだろう、と。

ある時、こういった気持ちになぜなるのかということを考えるようになってから、少し楽になった気がしましたので、それについて書きます。

 

人が落胆したり、裏切られたり、不遇だと思うのは、周りに対して、「これくらいのことはしてくれるだろう」という期待があって、それを下回った時に感じる感情だと思いました。

私の知人で、すごく仕事のできる人がおりました。結果も出して会社への貢献も大きく、それが認められて役職(課長)に就いていました。ですが親の介護のために転勤を希望したために役職から降ろされることになったそうです。

その人が言うには、「これだけ会社に大きく貢献していて、介護という止むを得ない事情で転勤を希望したのに、役職を降ろされることに納得がいかない」ということです。

ここでも「本人の期待」に対して「現実に起こった処遇」のギャップが落胆や不満となったわけです。
役職については会社が決めることですから、自分ではコントロールできません。もし仮に、会社が、背の高い順に出世させたとしても、それはやはり会社が決めることです。誰も優秀な人の順に出世させるとは言っていないからです。(これは極端な話ですが)現実にはこういった不合理はよくある話です。

もう一つのお話。

私は会社を三社経験し、その後、個人事業主となったのですが、最後の会社員時代には生贄社員として、みんなの前で怒られる役というのをやっていました。社長は部署の他のみんな(みんな女性)には優しいのですが、私(おっさん)にだけはつらく怒鳴り散らすということになっていました。暗黙のルールである社長による生贄社員制度はその後も今に至るまで延々と続いているそうです。

ある時、部署内で名古屋に出張ということで、私以外が全員の社員が名古屋に行って、私だけ留守番ということがありました。そして名古屋では社長のおごりで名物ひつまぶしを食べたそうです。私以外。

その話を聞いて、まあいつものことなのでなんとも思わなかったのですが、ひつまぶし美味しそうというのはありました。

時を経て、個人事業主となった今、名古屋に出張に来た際にあの日、美味しそうと思っていたひつまぶしを食べることができました。

会社員時代の時は食べることができなくて、今は食べることができたのは、社長に決められる生贄社員ではなくて、自分で自分のことが決めることができるからだなと。そんなことを今日ふと思いました。

 

人は完璧ではありませんので、全ての自分の思惑と相手の思惑が一致することはありえません。ですが、人は(その人にとって)合理的な結果になるだろうと期待しがちです。そしてその期待を裏切られて不満となります。

例えば「給料を上げてくれない」とか「やり方を教えてくれない」とかそういった不満というのは他人の意思が大きく関係してきます。その不満の根本には「給料が上がって当然」「教えてくれて当然」というその人なりの根拠があると思います。その根拠が正しいにしても正しくないにしても、
こういう問題というのは他人が変わらない限り解決しません。そして他人の意思を変えるというのは大変です。

それに比べれば自分で副業を見つけたり、やり方を本やネットで調べたりすることの方がよっぽど簡単です。それは自分でコントロールできるからです。

もちろん運よく教えてくれる人と出会えるかもしれません。しかしそれは幸運というものです。

他人は自分の思った通りには動かないことを前提にすれば、もっと楽に生きられるのではないか。そう思うようになりました。